、先週の取材頑張ったんだな!」
 時計の針が夕方を示して数時間、もう夜と言っても良い時間になってしまった隊室には私以外に誰もいなかった。書類が捲れる音とボールペンが走る音だけだった空間に、突然、電動ドアの滑る音と明るく力強い声音が響く。定例会お疲れ様です、と目線だけ向けると、白と黒だけを見続けていた私の目には鮮やかすぎて眩しいほどの赤色が飛び込んでくる。いつもながら、このちょっと派手な隊服がこの人……我らが隊長、嵐山さんにはよく似合う。
「会議で根付さんが喜んでいたぞ」
「良かった、お役に立ててなによりです」
 そりゃあ、そうだろう。そのために、事前に記者には質問事項を確認しておき、入念に台本を書いて、表情や仕草まで練習して臨んだのだから。……そのせいで、他のみんなは毎日普通にこなせている書類仕事を溜めに溜め込んでこんな時間まで処理するハメになっているのだけれど。
「……ほら、おいで」
 隣に座った嵐山さんが、換装を解いて笑顔で両腕を広げる。慣れた動作だ。
 私は書類とボールペンを置き、同じく換装を解いてそこに体を預ける。慣れた動作だ。
 ふわりと包み込まれるまま頭を倒すと、額が鎖骨のあたりに当たる。身体の触れている箇所から伝わる嵐山さんの鼓動は、いつも規則的で力強く一定だ。温かい。私の心臓より少し早く大きい音を感じていると、段々気分が落ち着いてくる気がする。
 ……嵐山さんは、私の恋人というわけではない。
 この笑顔だって、隊の他のみんなや、弟さんや妹さんに向けるものとなんら変わりないものだ。私の背に回っている両腕だって、抱きしめると言うには程遠いほど緩く、テーマパークのマスコットがグリーティングでしてくれるハグとなんら変わりないものだ。

広報とか無理だから嵐山隊辞めたい

 自分の中に絶えず渦巻くその気持ちを伝えたのは、柿崎さんがこの隊を去って間もない頃。
 小・中、そして高校でも人前に出るようなことは苦手で極力避けて生きてきた私にとって、嵐山隊が広報に選ばれたというニュースは、まさに晴天の霹靂だった。だから、柿崎さんが辞めると聞いた時は、寂しいという気持ちと意外だなという気持ちと……先を越された、という気持ちが渦巻いていた。
 立て続けに抜けると言い出すのも気まずい、という中途半端に燻る気持ちだけで頑張ってみようとしたけれど、結局3ヶ月も保たず音を上げてしまった。街を歩いているだけで注目されることも、写真を撮られることも、声をかけられることも、取材で気の利いた受け答えができないことも……広報に関わるなにもかもが、しんどくて仕方がなかった。いや、唯一隊室でもくもくと取り組める書類仕事は嫌いではなかったと思う。ともかく、今日のように嵐山さんと2人きりになったある日、私は情けなくも限界を伝えたのだった。
「そうか」
 その時、いつも凛々しく上がっている眉尻がゆっくりと下がっていくのを、見てしまった。
「なあ……その、俺に問題があるとかじゃ、ないんだよな」
 てっきり、「がそう決めたなら仕方ないな!」とか「隊を辞めてもよろしくな!」とか、そんなことをあの爽やかな笑顔で返してくれると思っていた。意外にも悲しそうな雰囲気を出す嵐山さんに、意外にも私は狼狽えてしまったのだった。
 ……どうやら、嵐山さんは私の無意識下でひとりの人間ではなく“清くて正しくて強くて明朗快活なものだけでできている何か”だと認識されていたらしかった。肩を落とす嵐山さんを目にして、柿崎さんが抜けて立て続けとなるとこの人でも堪えるのか、と私は自分で脱隊意思を告げたと言うのに、自分で勝手すぎるショックを受けていた。
「……言った通り、広報活動がしんどいなあってだけです」
「そうか」
 肩と一緒に下方を向いていた嵐山さんの目が、ゆっくりと私に向いた。いつもどんな時も、こちらがそらしたくなるほどまっすぐ目を見て話をする嵐山さんの視線が外れていたということに気付いたその時も、私はまた驚愕していた。
「……俺に、なにかできることはあるか?」
「……じゃあ、抱きしめてみてくれますか」
 ストレスが解消されるらしいですよ、とぶっきらぼうに、私は嵐山さんの問いにいつかテレビで聞いた話を返していた。やけくそなそれは、あのいつも明るく善良な嵐山さんを自分の言葉で傷付けてしまったのではないかという罪悪感への反発と、そもそも広報を引き受けてしまったのは嵐山さんじゃないかという八つ当たりと、私だってこんなことで嵐山さんたちから離れたくなんてないと悔しがる執着が、ここまでの動揺でぐちゃぐちゃに混ざった末に飛び出てしまった放言だった。
「分かった」
 あの時の私は明確に頭がおかしかったが、それに笑顔で今日まで応え続けている嵐山さんも大概だと思う。
 効果があるならみんなでしてみようか……いつかそう言われるのではないか、そう言われてしまったらどう受け答えをしようか。そう考えていながら、一年以上に渡って答えも出ずただただ黙ってその胸に身体を預け続ける自分の今の気持ちも、私の疲れ具合を目敏く観察して腕を広げ続けてくれる嵐山さんの本心も、どちらもよく分からず、それについては考えようとしないまま、誰にも言うことなく、知られることなく、この習慣は続いてしまっていた。
「書類、まだかかるのか」
「いえ、もう終わります」
 嵐山さんの体に響いて伝わってくる声を、私は顔を埋めたまま、触れている身体中で受け止める。
「……そこまで頑張らなくっても良いんだぞ」
 返答に詰まってしまう。だって、それは、無理な話だ。なぜここまで……隊のみんなは優しいから頼れば二つ返事で私の分の仕事を手伝ってくれると分かってはいるのに、それでも黙ってこんなに頑張ってしまっているのかが、自分でも上手く言葉にできないのだ。
 みんなの足を引っ張りたくないから? 自分のちっぽけなプライドを傷付けたくないから? こうして嵐山さんが”ストレス解消“に付き合ってくれているから? ここまでやってくれる嵐山さんの顔に泥を塗りたくないから?
「そういう嵐山さんも、いろいろ大変なんじゃないですか」
 結局、いつものように、私の頭は答えを出すことから逃げてしまった。
「確かに楽とは言えないけれど、みんなのおかげで助かっているよ」
「……私に、何かできることはありませんか?」
 まったく、私は卑怯者だと思う。一方的に嵐山さんに自分を甘やかすようにお願いし、ずるずると自分がどうしたいか答えを先延ばしにしておきながら……一方的に嵐山さんに迷惑をかけていることに後ろめたさを感じ、その解消方法まで頼ろうとしているのだから。
「…………」
 案の定、というべきか、ついに私は嵐山さんを呆れさせてしまったらしい。時計の針の音しか、いや、だんだん、嵐山さんの鼓動しか聞こえなくなってしまった。
 徹頭徹尾自分のせいだというのに居た堪れなくなる。私はこれがどうしようもなくずるいことだと分かっていて、何を謝るべきなのかも分からないまま「すみません」とだけ口にしようとしたが……叶わなかった。
顔が、嵐山さんの胸から離せない。頭が、抑えられている。優しく温かいこれはなんだろう。嵐山さんの、手? それが、私の頭を撫でている。時折、手櫛のように、私の髪を掬ってゆっくり通っていく。
こんなことは、初めて。自分がどうしたら良いのか分からない。半開きの口のまま、思考も体も停止してしまう。
「特に、」
 鼓動に混ざって、聞いたことのない嵐山さんの声がする。僅かに上擦って掠れた、囁くような声だった。
にはいつも、一番大事なことをやってもらっているからなあ」
 私の頭に、色々なものが次々と浮かんでは渦を巻く。
 換装を解くようになったのはどっちからだった?
 嵐山さんが私を呼ぶときに名字じゃなくて名前になったのはいつからだった?
 秘密にしていたのは、嵐山さんにとってもこれが捨て難いことだったからだとしたら?
 いつも聞いている私のよりも大きくて早いこの音が、もし嵐山さんにとって最初からずっと普通のものでは無かったとしたら?

「俺の”ストレス解消“だよ」

 ……そんな自惚れに塗れた都合の良い話が、こんな妄想が実際に、ありえるわけがない。ありえるわけが無いのに、どちらの鼓動か分からないだんだん大きく早くなる音の中、どちらの熱か分からない段々熱くなる顔を上げることができなかった。

(辞められない)


あとがき
企画「深夜0時のお茶会」提出作品 (210504)


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