「いや、ダメ、ダメだって!」
鋼の顔だけで視界が埋まっている。この間もあったなこんな光景。鋼の両肩を、結構しっかり押しているはずなんだけど、まるでびくともしない。ソファに腰掛けた状態で、私と鋼の、よく分からない攻防戦が静かに行われていた。
あの例の“公開処刑事件”からしばらく、私は鋼とあまり2人きりにならないように行動していた。まず単純に気まずい。それに、自分もだけど思春期真っ只中の人間が多い環境で“あんなことをした2人”が一緒にいたら……もうそれだけで揶揄われるのは間違いない。そういう好奇の目を向けられてひそひそされるのは普通に嫌だ。幸い、鋼とは支部も学校も違うから、避けて過ごそうと思えば特別苦労することはなかった。時折、学校で荒船が何か言いたげにしてはこめかみを抑えていたり、犬飼が何か言いたげにいつもの3割マシでニヤニヤしていたけれど、変化といえばそれくらいだった。
「、」
あの時視界を埋めていた鋼自体、気の迷いでついというような顔ぶり口ぶりをしていたし、同学年連中にすぐ”かげうら”に連行されたおかげで私と鋼の仲については奴らの誤解も解けている。鋼は普段は落ち着いていて優しくて腕も立つ、良い人だ。だから、それなら、私はこの気まずさとは適当に折り合いをつけて今後も前みたいに良き友人として仲良くしていきたいなー、なんて思っていたのだけれど。能天気にそう思っていたのは、私の方だけだったらしい。
この間と今で同じなのは、“目の前に鋼の顔がある”という一点だけで、その表情や体勢なんかは、全く違う。私の全身が、悪い予感で粟立つ。この間は、自分でやっておいてなに混乱してんだってつっこみたくなる顔をしていたのに、今はどうだ。じ、っと揺れることのない鋼の黒い瞳が、真っ直ぐに私を射抜いている。いつも眠そうに見える目つきをしているけれど、いつもと違って目尻がとろけている……ように見える。そういえば、前に友達が風邪で早退した時の目つきもこんな感じだった、気がする。そうだ、きっと鋼は具合が悪いんだ。そうに違いない。だから、私がさっき言われたことも、鋼の言い間違いとか、私の聞き間違いに違いない。鋼がごめんとか口が滑ったとか言ってくれるんだったら、もう全力ですっとぼけて無かったことにする準備はできている。
「な、なに?」
補習のプリント教えあって一気に終わらせようぜ、と荒船と穂刈が誘ってくれて、じゃあ荒船隊の作戦室で、と約束したのが一昨日。アクション映画が公開されて、入場特典で貰える主役の筋トレインタビュー冊子が欲しいとかって会話をしているのを聞いたのが昨日。いざ約束の時間に訪れてみたら作戦室にひとりぽつんと居た鋼と出くわしたのがつい1時間前。
やられた、と一瞬焦ったけれど、鋼がもそもそと筆記用具とかを取り出し始めたので、それからはソファに並んで座ってそれぞれ出された課題を解いたり分からないところを聞き合ったりと、真面目な勉強タイムを過ごせていた。あーよかった、前までのように穏やかに過ごせてるじゃん! なんて安心したんだけれど、良く考えたら、元々鋼は荒船やカゲ相手でもなければ自分からべらべら喋るタイプじゃないし、勉強してたら尚更無駄に口を開くこともないし、様子がおかしいとかどうとか、気付く材料が無さすぎた。まあ、だからというか、油断をしていたというか、いや、多分油断してなくとも、あの鋼が"あんな欲"を、なんの前触れもなく口にして迫ってくるとは、私に想像できるわけはなかったのだ。
私の両手での抵抗などものともせず、座面についた鋼の手が、背もたれを掴んでいる手が、またにじり寄ってくる。何度目かの進退……いや物理的には退いてしかいないんだけど、じりじりと横に横にとずれて距離を取ろうとしていた私の脇腹に、無情にもソファの端……肘置きが当たる。この逃げ場を失ったタイミングを見計らってなのか、偶然なのか、鋼の唇が、さっきと同じ形に、ゆっくりと動いた。
「キスしたい」
……いや、もう一度言われても、ダメなものはダメだからね!?
何言ってんのこいつ! いや、何言ってんのっていうのは、別に聞こえてなかったわけではなくて……だから、そんなじっくり言われても私の返事は変わらない。むしろ悲鳴に似た抗議が飛び出してしまった。
「この間無理矢理したでしょ!?」
「……あれはお互いにトリオン体だった」
いやいや、なんでちょっと不満げなの。
そもそも、トリオン体でも許せることじゃないからね、本来!
「それに、トリオン体でも……なんか、ざわざわしたんだ」
ここら辺が、と背もたれに置いていた手を側頭部とか後頭部あたりでわさわさ動かして何かを表現しようとしている。私にはぜんっぜん分からないけど。
「だから生身だとどうなるのか、あれからずっと気になって……何も手につかないんだ」
「なまみ……あっトリガーオンしたらどうする? 私が!」
「え、今?」
「今!」
「そうだな……マットまで迎えに行く」
いやいやいや、私の言葉は「拒否します」って意味なんだけど。まさか、「抵抗するお前を叩き斬ってベイルアウトさせる手間を挟んでまで生身でキスしたいです」っていう返事を、目を泳がすことなく真っ直ぐされるとは。言葉に逃がさないという意思しかないし、私に負けるという発想が微塵もないのもすごい。……これでも鋼相手に勝ち越しこそはできていなくても、いつも数本は取れてるはずなんだけど。というか、鋼が勝手にそんなよく分からないことを気にして上の空なのは、私には一切合切関係も責任も無いはずだ。だめだ、鋼ってこんなによく分からないやつだったっけ。なんだこいつは。誰なんだこいつは。もしかして鋼に化けた近界民なんじゃないかとすら思ってしまう。この男は本当に、誠実でストイックで周りからの信望も厚く良き友人であるあの村上鋼なんだろうか。こんな飢えた犬のようにギラついた目と吐息をして、私に無理を強いろうと迫る男が。
「一度だけでいいから。……確かめたいだけなんだ」
「い、一度……?」
いやいやいやいや、それもそれでどうなんだ。危ない、鋼の真剣な様子と圧力に、一瞬首を縦に下されかけた。日頃の行いって強い。でも落ち着け、恋人でもない相手に“一回試したいだけ”って……それは普通に不誠実なのでは? 睨んでみても、鋼は私の反応を待っているのか、口を閉じて固まったままだ。……はー、一度、一度かあ。今の鋼に対する数少ない判断材料である先日の事件から鑑みるに、恐らく鋼にはいくら私がぎゃあぎゃあ喚いてみても睨みつけてやっても、むしろ逆効果なんだろう。私が本気で嫌いだと吐き捨ててそういう態度でもとってみれば、きっとやめてくれるという程度の信頼はまだ残していてもいいだろうけれど、私は何度も言うように鋼のことは良き友人だと思っているし、攻撃手のライバルとして尊敬もしているし、演技でも嫌いだとか傷付けたいとか思う相手では断じてない。
助けを求めてみようにも、約束しているはずの荒船穂刈は、多分まだしばらく来ない。そもそも、私と鋼を2人きりにして話をさせようと企んだ張本人たちだ……流石に、まさか鋼がこんな暴挙に出るとは思っていなかっただろうけれど。仮に何も企んでいなくても、あの映画好きの荒船だ。連絡しようにも当然のマナーとしてスマホの電源はしっかり切っているし、観終わった後も穂苅と2人で内容について侃侃諤諤と語り合うに違いない。そもそも、私のスマホは、勉強するからって真面目に鞄に放り込んでしまった。どう考えても、「追い詰めた獲物がソファから離れて、鞄を漁って、スマホを操作して、助けを呼ぶ」……その一連の流れを、おあずけ中の獣が大人しく眺めていてくれるとは思えない。
つまり私には、普段の落ち着きが消え去って瞳にも声にも吐息にも熱が籠り、ソファの隅にまで自分を追いやって抑え込もうとする男を相手取り……穏便に、かつ明日以降交友関係に影響が少ないままにかわせるような画期的な手が思いつかなかったのだ。……あとで思い返して私が悪い点を挙げるなら、それこそ荒船穂刈が戻るか、根回しをされていない可能性にかけて半崎くんか加賀美ちゃんが来るまで何時間だろうと頑として首を横に振り続けられなかったことだと思う。強いて、挙げるならばだけど。
「い、一度だけ、一度だけだからね!?」
結果として、私はついに言ってしまったのだった。もうただただ悔しい。完全に雰囲気と状況に押し通されてしまった。いつも個人ランク戦でそうやって負け越しているのに、戦闘全然関係ないところでもこうして負けてしまうというのか。釈然としないし、なにより“恋人でもない男が自分にキスをする許可を自分で出す”とか、屈辱だとか恥ずかしいとかどころではないし、あああああ、もう、頬が上ってくる血で破裂しそう。
「ああ」
対する鋼は、もう分かりやすく嬉しさを隠す気もなく、にこにこしている。……あの事件のあとブースに引きずられて来た時、”かげうら”で微笑んでた時と全く同じ顔だ。呆れのような納得のようなよく分からない気持ちが胸に湧いてくる。
ああ鋼、こいつ、本当に私の悔しがる顔が好きなんだな……と。
正直、そうなんだとしたら本当に鋼の思考回路が分からないし、なんかちょっと自惚れみたいな表現になっちゃうから、あれからもあんまり考えたくはなかったし認めたくもなかったのだけど。うっとりと微笑む当人を目にしたら、もうなんの否定もできそうにない。
ふに、と不意に触感。
元々視界いっぱいになるくらい近かったから、私の口に鋼のそれがくっつくのはすぐだった。そしてあの時と同じで、離れるのもすぐだった。一瞬のことで全然目を瞑る暇とかも無かったので、鋼の少し伏せられた目が寄ってきて離れるまで、つまり口がくっつく……その、キスを、されてしまう、した、ということをしっかりと認識してしまった。胸から、こめかみから、耳の奥から、なんかもうあらゆるところで心臓の音がしてうるさいし、心臓が跳ねすぎて物理的に胸が痛い気さえする。頭といわず全身爆発しそう。
ともあれ、これで約束通りの1回だ。だというのに、鋼は相変わらず私の眼前から離れる気配がない。恥ずかしすぎて照れすぎて早くここから立ち去りたくて仕方がないのに。
「も、もうこれで良いでしょ……」
「…………」
無言。鋼の背中、ソファの半分くらいガラ空きなんだからそっちにずれて欲しいのに、鋼は依然私を見つめ続けている。ぎし、とソファの軋む音。嫌な、予感がした。首筋から背中まで、一気に悪寒が駆け抜ける。
「え? ちょっ、」
鋼の顔が、また寄る。また、さっきの感触。
「なん、ちょ、ん、鋼、っ」
言葉を、出させてもらえない。
恐る恐る触れるように。
柔らかさを覚えるように。
感触を楽しむように。
何度も、何度も、かさついた唇が押し付けられる。離れては、また擦り寄せられる。いくらなんでも、これはおかしい。もう肩どころか、顔を思いっきり押し退けてでも止めなきゃ、まずい。だというのに、手が上がらない。両手首に、圧迫感。まとめてソファに押し付け、抑え込まれている。私の両手首を、片手で。なんで。いつの間に。
引きつる私の唇を、鋼が唇で挟む。そのまま、喰むように数度……そして、硬い、ちらりと触れる、これは歯だ。え、口をつけるだけでしょ? なんで? もうずっと頭の中で鳴り響く警報器が、弾け飛ぶ。
「いっ一度だけ、って、言った……!」
無理矢理首を、唯一動かせる顔を思いっきり背ける。肺が、酸素を取り込もうと動く。酸欠と、混乱で、テーブルと床が、歪んで見える。
ちゅ、と小さい音がして、頬が吸われた。……なんだこいつ、唇じゃなきゃいいとでも思ってるのか? まさかおちょくってるのか? カッ、とさっきまでとは違う血が頭に上る。
「ごめん」
「いや、ごめんじゃ……ッ」
背けた耳元に落とされた、ささやかすぎる謝罪。間髪入れずに文句のひとつでも言ってやろうと思ったが、それも叶わなかった。鋼の手が、私の顎に伸びたのだ。大きい、男の人の手だ。指先が、頬にまで届いて、強引に顔を戻される。鋼と目が合う。熱に浮かされ、欲に塗りつぶされた黒い視線。喉が、勝手に息を呑む。
「の焦ってる顔、すごくかわいくて、その……悪い、とめられない」
「っ!?」
分厚い何か。私の絶句して半開きの隙間に、強引にぬるついた勢いを以て押し入って来る。側頭部が、後頭部が、急激に冷える。……サァ、という音が、本当に聞こえる気がする。それほど一気に、さっきまでの血が、上りたても含めて全部引いた。え、ごめん、ってそういうこと!? 嘘でしょ!
「…………」
じゅ、湿った、じゅる、吸う音。鋼の口から出る音は、それだけだ。いや、私の口からでもある。口の中で、頭に、直接響くようで、気が狂いそうだ。鋼のそれが、好き勝手に私の口内で動き回る。自分の舌以外のモノが、ぬるぬると、歯茎に沿って、歯をなぞり、我が物顔で蠢く。初めて襲う感覚が、ひたすらにおぞましい。自分のそれを逃がそうとしても、鋼はまるでそれを楽しむように、絡まってきて、吸い付いてきて、もうこのぬるついたものも、唾液も、吐息も、どれが私のものなのか、どれが鋼のものなのか、わからなくなっていく。
腰のあたりが、痛い。鋼のもう片方の手が、いつの間にか、抱き寄せるように、背中を回り込んでいた。脇腹に、指が食い込んでくる。引き摺り、寄せられる。肩が痛い、いつの間にが肘置きが、ずるり、ずるり、とその位置を、どんどん、上げていく。
「……はぁっ……」
私の背中が、頭が、とうとう肘置きからもずり落ち、座面に完全にくっついた頃。吐息に、頬を撫でられた。身体中に籠った熱を吐き出したかのように、熱い。鋼が、さっきまでとうってかわって、緩慢に上体を起こしていく。へえ、本当に、口の間に糸が掛かるんだ。いつか少女漫画か何かで見たシーンが、ぼんやりと過ぎる。だめだ、頭が、現実逃避に走りかけている。鋼が、一息ついた今、抵抗しなくちゃいけない。ここから”先”のこと。それを考えると、絶対に。こういう経験もそういう経験も無いけれど、流れとしてこれからどんな行為をされるのか、流石にそれを察せないほど私は無知ではなかった。
……鋼のことは嫌いじゃない。正直に言えば、あの日以降「もし鋼が私のことを好きで、きちんと付き合って欲しいとか言われたら」と、自惚れた妄想が過ぎることもあった。そうしたらどうしようかな、多分悩むけれど、首を横には振れないかもしれないな、とかちょっと浮かれていた程度には、むしろ好意的な異性だとすら思っていた。でも、これは、こんな状況は、許容外だった。ムードも何もない、作戦室で、ソファで、無理矢理押し倒されて、当然恋人でもなくて。
逃げようと身じろぎをしようにも、いつの間にか片膝を座面に、もう片足は跨るように私を挟んで床に立つ脚はどちらもびくともしないほどがっしりとしていて。抵抗しようと手を動かしてみても、腰に回されたそれも、顔の横に突き立つそれも、自分よりずっと太く筋肉がついていて。
恐る恐る見上げる。お願いだから、冷静になっていて欲しいという薄い望みで。天井を背景にする鋼がいる。ただでさえいつもそんなに動かない表情が、逆光に塗り潰されている。それなのに、がちりと合ってしまったその目だけが、爛々と、光っている。重たい瞼から覗く、黒い双眸が、私を見下ろして、私を見据えて、私を捕らえている。
舌が、乾く。さっきまで、溺れそうなほど湿っていたのに。喉が、張り付く。声が、出ない。
……こわい。
一度そう思ってしまうと、今までの“良き友人の鋼”の印象で、なんとか抑えていた、その感情が、湧き上がって、どろどろと、頭の中を、塗りつぶしていく。頬が、こわばる。喉が引き攣って、息がうまくできない。ぐ、と目に、力が籠る。
「っあ……」
鋼の、声。溢れでるようなそれと共に、ふ、と体の圧迫感が、消えた。
「悪い、その……の、怖がる顔がみたいわけじゃなかった」
鋼の腕が、脚が、引いていく。よろよろと、力無く立ち上がって、私がずっと取って欲しかった距離を、広げていく。
「オレが、のことを好きなのか、確かめたくって」
さっきまで熱に浮かされた顔をしていたのが嘘のように真っ青な顔で、テーブルの上のプリントや筆記用具を引っ掴んで、そのまま鞄に突っ込んでいく。
「……ほんとうに、ごめん」
ドアの、スライドする音だけを残して、消えていった。……今にも泣きそうな、酷い顔をして。
私はというと、押し倒された体勢のまま、重力で固定されてしまったように、呆気に取られたまま目だけしか動かせなくて、ふらついたまま立ち去る鋼の背中を、ただ見送るしかできなかった。……文句とか、返事とか、何かしらで口を動かす間も無かった。
ひとり、静かに取り残されてしまった。しばらく、ぼんやりと荒船隊作戦室の天井の汚れを無心で数えてから、もうとっくに自由になっている腕と脚に力を入れて、身体を起こして…………とりあえず、頭を抱えた。
これから来るだろう荒船と穂刈に、どう誤魔化せばいいんだろう。しれっと何事もなかったように、補習の問題に頭を使える気がしないんだけど。一度って言い出したの、鋼自身だったよね? あんな無理矢理しておいて、怖がらせたくなかったってどういうことなの。好き勝手やっておいて、あんな責めにくい、この世の終わりみたいな顔する? …………ていうか、最初に“確かめる”って言ってたのって、そういうこと? 嘘でしょ!?
「な、泣きたいのは私なんだけど……!!?」
あとがき
落ち着いた男子高校生が我慢できなくなるの良いよね……(210214)
よかったなあとかあればポチッと→ ❤❤❤