02の村上くん視点


「確かめてみたらどうだ、お前の本心ってやつを」
 相変わらずごちゃごちゃと物に溢れる作戦室で、初めに口を開いたのは穂刈だった。
 その日は、来間先輩が本部に行くというのでなんとなく付いてきたはいいがどうにも個人ランク戦会場に行く気にもなれず、ふらふらと散歩をしていた。そんなオレを見つけるや否や無理矢理ここに連れ込んだもうひとり……難しい顔をした荒船が組んでいる腕を解いた。
「俺が機会を作ってやるよ。一度ふたりでしっかり話をしてみろ。……お前ら、最近会話どころかまともに顔すら合わせてないだろ」
「片付ける前でよかったな、映画を観るためにしか使っていないソファを」
 “お前ら”。それが、オレと誰を指すのかを聞き返すほど、オレは鈍くはない。荒船の言う通り、もうしばらくその姿を見ていない。所属も違えば学校も違うその相手……のことを思い浮かべると、じくりと胃の底が重く痛んだ。多分、避けられているのだろう。当然だ、とは思っている。
「いいか、もしお前がアイツを好きじゃなかったとしたら、慎重に詫びろよ。バカ、トリオン体とはいえキスした相手に“ついやっちゃったけど別に好きじゃなかった”なんて直球に言ってみろ。キレられてもおかしくない話だぞ!」
「まあ、地の底まで落ちるだろうな。いきなりキスした時点で本来かなりヤバいだろう評価が」
「あれ自体、鋼じゃ無かったら社会的に死んでたと思うぜ。……まあ、面白がった俺たちが言えたことじゃねえが」
「こういう時にものをいうな、日頃の行いが」
 自分でしたこととはいえ、あの行動が普通じゃないことくらいは分かる。みんなからひとしきりからかわれはしたが、当の本人からはそれ以上糾弾されることは無かった。穂刈のいうオレの日頃の行いとかは分からないが、の対応には本当に社会的に救われたのだろう。
 ……あの日、に言った言葉にひとつも嘘はない。最初の戦闘訓練で声をかけてくれたあの日から会えば個人ランク戦に誘ってくれて、その結果に一喜一憂し、ひたむきに努力する様には好感を覚えていた。剣を交える回数が増えるごとに段々と強くなっていたそれが、あの時、頭の中でいっぱいになった。止めることができなかった。
 かわいい、と思った。
 ただ、あれが本当にそういった……恋愛感情からくるものなのかは分からないままだった。みんなの和を崩したくなくて控えていた人付き合いが、こんな形で経験の薄さとして現れるとは、考えもしなかった。
「とりあえず、確かそっちの学校も補習があったな」
「あるな、結構な量が」
「都合がいい。それなら……」
 どうにも舌の根が喉に張り付いて、オレが声を出すこともできないうちに、あれよあれよと話が進んでいく。荒船の様子を見ると、どうやらぎくしゃくしているオレたちの様子に随分と気を揉んでくれていたらしい。穂刈も、その顔からは読み取りにくいが、一緒に心配してくれていたようだ。ふたりは、ああしよう、こうしよう、とオレたちのために作戦を練り始めていた。なんにせよに詫びたい、そしてできれば今後同じ過ちを起こさないようにオレがへ抱くものをはっきりさせておきたいと考えていたので、ふたりの気遣いは本当にありがたかった。


 ……だというのに。


 いつもオレに見せるムキになった表情。周囲に対して人付き合いの良い彼女が、きっとオレだけにみせる、そう考えるとかわいらしいと思ってしまうその顔。
 今までオレが見たことのない色。怒りなのか……もしかしたら照れてくれているのかもしれないと自惚れてしまいそうに真っ赤に茹だった頬。
 不承不承といった風でも、それでもが頷いた。受け入れてくれるんだ、と。それで、もうオレは触れる前から頭だけでなく全身がざわつき、毛が逆立つ錯覚に襲われていた。
 一度唇を擦り寄せてみると、もう駄目だった。押し付けるたびに何度でもこうしたくなるほど甘やかな柔らかさが、触れるたびに脳みそが段々と溶けていくような暖かさが、とにかく気持ちが良くて止まらなかった。
 頬から、目元、耳、首……が、だんだんと色付いていく。が溢そうとする声や吐息、それを遮って唇を奪うたびに、照れ、戸惑い、怒り、焦り……ころころと変わっていく表情。
 オレの頭にはぼんやりとした感情が浮かび、じわじわと増え続けるそれでいっぱいになった。
 ──かわいい。
 オレの意識を満たすそれに当てはまる言葉を探すと、それだけだった。埋め尽くすそれが熱を帯びていて、体の芯が熱くて熱くて仕方がなかった。
 逃げる唇の代わりに視界を占めた彼女の頬にも触れてみれば、やっぱり熱くて、柔らかかかった。
 ボーダーに入って一年、とは何度も顔を合わせた。何度も剣を合わせた。だから、オレはのことをそこそこ知っているつもりだった。でも、オレが知っているは、ただの一面だけだったらしい。なにせオレは、がこんなに肌を染めることも、こんなに吐息を熱くすることも、知らなかったのだから。そうだ、もっとを知りたい。どうしたらどんな反応をするのか、どんな顔をするのか、知りたい。オレの頭は、いつになく貪欲にを学習をしたがっていた。
 慌てきった表情も、そのありとあらゆる赤さも、口内に響く水音に反応して動く彼女の舌も、彼女のこもった吐息も……何もかも見知らぬで、でも、その全ては今オレがそうさせているのだと思うと、体の奥底で何かが沸々と沸き立ち、絶えず込み上げてきて……たまらなかった。
 口だけじゃ足りない。腕が勝手に動いて、彼女の背中に回っていく。オレとの体が作っていた空間が小さくなっていく。そうするとすぐに、オレの手は反対側の柔らかい脇腹までするりと届いてしまった。驚いた。いつも強い目でオレを見据え弧月を振るい戦っていたは、こんなに、いとも容易くオレの体にすっぽりと収まるほど……小さかったのか、と。
 心臓が、オレの動揺に合わせて一際大きく鼓動した。それは低くて、脳にやたら響く嫌な音だった。多分あれは、最後の何かが崩れる音だった。
 その瞬間、全部欲しくなってしまった。
 彼女が抵抗を示すはずのその両手は、オレの片手で座面に抑えることができてしまった。本当はこれほど非力なその腕が抱きしめるのは、その手が触れるのは自分だけであって欲しくなった。片腕で抱え込めてしまい、力を込めれば込めるだけ腕も指も沈み込んでいく柔らかなこの体躯に触れることができるのは、この温かさを感じられるのは自分だけであって欲しくなった。彼女と相対するのは、弧月を構えた時の集中した顔も、負けて悔しがる顔も、勝って喜ぶ顔も、目を泳がせて慌てる顔も、首まで赤くして照れる顔も、きっとまだ知らないたくさんの顔も、その全てを知るのは自分だけであって欲しくなった。
(……なら、そうしてくれるんじゃないか?)
 都合の良い、身勝手な考えが次々と湧いて止まらない。
 息が苦しい。呼吸する間さえ惜しんだのだから、当然だろう。でも、この苦しささえ気分を高揚させた。吐息が熱い。隙間から溢れ出ていくのが勿体無いとさえ思う。オレのなのか、のなのか、あらゆるものが混ざってしまって、どちらのものかわからない。体を少し起こす。今、はどんな顔をしているのだろうか。もどかしい。のきっとかわいらしく歪んだその顔も見たい。唾液が、オレとの口の間に糸を引く。が、深く息を吸って、吐く。揺れる空気に糸が切れて、落ちる。消えていく細い糸を茫然と目で追う。落ちた先に、喉が見える。薄桃色のそれが眩しい。欲しい。尽きること無く、心底から湧き上がって止まらない知らない衝動。どうやら、自分のことさえも今まで知らなかったらしい。
 ふと、ぼんやりとオレを見上げていると目が合った。
 彼女の虚だった目が、一瞬だけ、こぼれ落ちそうなほど見開かれて……ぐ、と歪んだ。
 いつも真っ直ぐ自分を映してくれていた瞳が、滲んでいく。
 さっきまであれほど熱く色付いていた頬が、冷たい白に色褪せていく。
 あれだけ柔らかだった口が、豊かだった表情が、引き攣って固まっていく。

 “その顔”は、オレが初めて見るものだった。

 の喉が一度だけ、ひくりと動いた。それと同時に、一気に視界が開けていく。
「っあ……」
 あれだけ体中を支配していた熱と興奮が、急激に冷える。……サァ、という音が、本当に聞こえる気がする。喉奥から、音が漏れた。視界の端に、荒船隊のみんなが好き勝手に散らかしている私物が見える。そうだ、いつもの、荒船隊の作戦室だ。いつもみんなで映画を見る時に使うソファ。そこに、が倒れている。いや違う、倒したんだ、オレが。何故。オレは何をした? そもそも何をするはずだった?
 足に、力が入らない。どこをどう歩いたか、オレはそこから逃げ出していた。
の、怖がる顔が見たいわけじゃなかった」
 去り際に絞り出した言葉は、間違いなく、本心だった。でも、きっと言い訳にしか聞こえなかっただろうあの謝罪を聞いて、はどんな顔をしていたのだろうか。怖くて、の表情を窺うことができなかった。
「オレが、のことを好きなのか、確かめたくって」
 ……あれはきっと“好き”だなんて綺麗なものじゃない。もっと汚く、もっと暗い衝動だった。
 あれだけ気にかけて、お膳立てまでしてくれた荒船と穂刈になんて報告したらいいんだ。
 それに、謝るどころかより一層酷いことをした上に置き去りにしてしまったはどうしているだろう。落ち着いてきて心配と申し訳なさでいっぱいになる。いつの間にか帰り着いた自分の部屋で、オレは頭を抱えた。


あとがき
話がまとまらなくて放置していたので、思い切ってぶった切りました…… 終わらなかった……(211106)


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