リングにもまだ上がれない

夜勤の村上くんと恋愛運最悪の鈴鳴事務員


「アッハッハ、ハッハ、はは、は……」

 夜遅くにアルコールの香りを纏い、器用に小声で高笑いをしながらソファにどっかりと腰掛けるさんを横目に、オレはいつも通り食器棚からさんのマグカップを取り出して水を注ぐ。
 さんが慣れた手つきでそれを受け取り口をつけるのを確認して、オレもテーブルを挟んだ方のソファに腰を下ろした。

「ああ、なんでこう、私ってダメなんだろうなあ……」
「ダメじゃ無いですよ」
「だよね!? いや夜勤に入ってくれてる高校生に毎回酔っ払って愚痴るのは大分ダメな大人だけど!!」

 前回は5ヶ月前だったか。今回は今までで一番間が空いたけれど、こうしてさんを介抱するのはもう5回目になる。さんが彼氏に振られるのはいつも決まって、偶然オレが夜間待機をしている日だった。
 背もたれに背中も首も頭も何もかもを預けて天井を仰ぎながら、さんは本格的に愚痴モードへ移行し始めた。あまり似合っていない私服がシワだらけになっていることを気にもかけない。今日はずいぶん酔っているらしい。

「私、大学入ってからずっとひとり暮らしだから、家事は最低限保証できるし」
「はい」
 鈴鳴のご飯当番にも入ってくれているし、いつもいつの間にか掃除や洗濯もしてくれている。

「仕事だって、大学出てからずっとボーダーでちゃんと働いてるし」
「はい」
 鈴鳴支部の立ち上げ時も、誰もが不慣れでバタバタする中頑張ってくれた人だし、もちろん今もうちには居ないと困る重要な人だ。

「ご飯代とかだって、対等でいたいから割り勘にするし」
「はい」
 その割に、オレたちと食事に行く時は、オレたちがなんと言おうと絶対に出してくれる。

「予定も、可能な限り合わせてきたし」
「はい」
 そのために、他の日に仕事を詰め込んででも無理に休日を作っていたのを知っている。

「服の好みもさ……髪の毛だって、短い方がいいって言うから、この間切ったばっかりだし」
「はい」
 あそこまで伸ばすのには時間がかかっただろうし、オレには良くわからないが手入れだって大変だっただろうに、しなやかに揺れていたさんの綺麗な髪の毛がバッサリ短くなったのを見た時は流石に驚いた。

「毎日連絡してー、とか束縛はしないし」
「はい」
 でも、相手からの連絡には小まめに返信していたし、電話に出られなければ時間が出来次第折り返しているのを見てきた。

「あーあ! 私って、結構いい物件だと思うんだけどなあーっ!!」
「はい」
 オレは、さんの話ひとつひとつに丁寧に頷いた。

 いつもさんは散々に振られて帰ってくる。何をどう、という詳しい話はどれだけ酔っていても子どもには、と未だにぼかされてしまうが、愚痴や噂を聞くと浮気だったり仕事が受け入れられなかったり都合よく遊ばれてるだけだったり、どうもそういう理由らしい。
 ともかく、オレはその度にさんの愚痴を聞いていた。……普段は、どれだけ仕事が忙しくてもオレたちには必ず笑顔を向けて、愚痴や弱音なんて絶対に吐かないさんの。

「適当でも全部聞いて全部相槌打ってくれて、ああ鋼くんは優しいなあ!」
「適当じゃ無いです。オレは、本当にさん良い人なのになって思ってます」
「っはぁーーーーー、ほんと、ほんっといい子…………ありがとね……鋼くんは良い彼女を見つけるんだよ……」
さんの目から見て、男に見えるようになったらそうします」
「いやいや、若いうちに青春しとけぇ、私みたいに経験不足で痛い目見ないように……いやでも女の子とっかえひっかえしてる鋼くんはお姉さんちょっと見たくないなあ……」
「オレ、自分で言うのもなんですけど、一途だと思います」
「うんうん、分かるよ全身からそういう雰囲気出てるよぉ……優しいし護ってくれるし大事にしてくれそうだし家事も一緒にしてくれそうだし浮気するくらいならハラキリしそうだしアハハハハ、鋼くんの彼女になる女の子は幸せだなあ……」
「なら、さんどうですか」
「いやぁ本当に優しいねえ、ありがとうねえ、ズタボロにされたお姉さんの自己肯定感が修復されていくのを感じるわぁ……今夜は枕を涙で水浸しにする予定だったけど、おかげでぐっすり眠れそうだよ……」

 がくんがくんと揺れ始めたさんの手からマグカップを受け取る。どうやら満足して眠気が限界らしい。ふらふらと揺れながら腰を上げた。

「階段、登れますか」
「だいじょぶだいじょぶ、ありがとお、そーだ、今度良いとこのどら焼き買ってきてあげるねぇ……それじゃあオヤスミ~」
「おやすみなさい」

 欠伸を噛み殺しも隠しもせずにゆらゆらと手を振りながら、さんはおぼつかない足取りで消えていった。
 ……”いい子“に“お姉さん”、か。
 どうやら今日も、オレはさんの眼中には入れなかったらしい。自分がひとりで勝手に始めた判決すら曖昧なものとはいえ、この勝負ばっかりはどれだけ寝ても二度と負けないどころか、まだ一度も勝てていない。今日はいつもより踏み込みを強くしてみたが、あの様子だと明日にはオレの言葉は忘れているだろう。

「悔しいな……」

 さんの誕生日にプレゼントして、もう随分とコーヒーの渋がついてしまったマグカップを、オレは丁寧に洗って水切り籠に入れた。


(210524)


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