「それじゃ、電気消すねー」

 ああ、と既に枕に頭を乗せている鋼の返事を聞きながら照明のリモコンを弄る。ぴ、という電子音と共に部屋が真っ暗になる。鋼は昼寝は別として夜寝る時はいつもそうしているそうだ。手探りで鋼の隣に横たわると、すぐにタオルケットと掛け布団が私を優しく覆う。鋼の片手はそのまま私のお腹を通って脇腹のあたりに収まっていく。
 私より背が高くて厚みもある鋼と普通のシングルサイズのベッドで寝るのは当然窮屈なのだけれど、いつも鋼はこうやって私に擦り寄るようにして眠るので、朝起きてどちらかが落ちているとか、布団からはみ出ているとかはほとんど無かった。
 困り事としては、今日のように寒い夜ならまだ良いけれど、鋼は夏だろうがお構いなしに引っ付いてくることくらい。暑いし寝返りが打ちづらくて、正直窮屈だ。ひとこと文句を言おうと振り返っても、そこにあるのは表情筋のとろけた幸せそうにうとうとしている顔なので、私はいつも口を半開きにしたまま許してしまう。
 それに、鋼が鋼自身も無意識で無防備に晒す好みというものは、とても柔らかくて傷付きやすい。鋼は、普段は名前のように強くて格好良いけれど、その裏に人付き合いに関してはいっとう繊細な心を持ってもいる。三門にくる前の話を聞けばそれも頷けた。ともかく、私が恐れているのは、ちょっとでも私が不満や注意を口にしたら、二度とその行動をしなくなってしまうのではないかというところだ。気を付けてくれれば良いだけのことでも、私が言ったせいで鋼の言動を縛ってしまうと思うとぞっとしないものがある。まあ、夜のこれに関しては、私もこうして好きな人に触れて眠ること自体はとても嬉しいわけで、どちらを取るかといえば当然双方幸せでいられる現状維持だ。
 いつもこうして明日の予定とか、ちょっと思い出したこととかをぽつりぽつりと話をしているうちに、眠る前の穏やかな沈黙がやってくるのだけれど……今夜は、ずっと鋼の手は私のお腹を弄り続けていた。

 ああ、今日は“その日”か。

 私は緩やかに阻害されるまどろみの意識の中でぼんやりと呟く。鋼がうちに泊まりにくる回数はそう多くは無いのだけれど、その中でもいわゆる“寝る前の運動”をしない日にはこうやって甘えてくることがあった。
 中指で脇腹を押したり、位置を変えて掌でお腹を抑えたり、下腹を撫でたり……私が若干の拒絶の意を込めて鋼に背中を向けたりすれば、それはそれで好都合と言わんばかりに密着してきて、私は鋼の体にすっぽりと覆われてしまう。そしてシャツ越しの私のお腹に添えられた鋼の手は飽きもせずにゆるゆると動き続けるのだ。

「……鋼、私のお腹撫でるの好きだね」
「そうか?」
「そうかって、いつもやるじゃん。今もだし。……おかげで、安心して太れないんだけど」
「嫌ならやめるけど」

 うなじに、鋼の掠れた囁きを乗せた温かい息がかかる。すり、とそこに触れるのは、鼻だろうか、唇だろうか。鋼は、鋼自身が意識している欲望に対しては、一転して非常に強情で頑固で我儘だ。不思議なことに……彼は基本的に穏やかで優しい性格をしているので私に気遣う素振りは見せるしその態度に嘘はないけれど、その実ガンとして譲らないという矛盾を内包している。嫌ならやめるけど。絶妙な言い方だと思う。もしかしたら、私が勝手に鋼に引け目を感じ甘くしているところを嗅ぎ取っているのかもしれない。
 なんにしても、つまりこの場合の問いかけというのは“私の意見は聞いていない”ということだ。その証拠に、鋼のもうひとつの手が私のシャツの裾を摘んで雰囲気だけ控えめに引いている。これは、“私にちゃんと許可を求めていますよ”というポーズだ。私が無反応であればそのまま手を差し入れてくるし、私が嫌だと言っても、そうかと一応引き下がってからまた未練がましくシャツ越しのお腹を弄り、何分でも粘ってくる。鋼に根比べで勝てるわけもない私が眠気と呆れで無言になった頃合いで、結局また同じように裾を引いて侵入してくるのだ。
 手入れのされていない、男の子らしい少しざらついた手が、より一層無遠慮に私の肌を滑る。時折浮いた肉を摘んだりもしてくる。こればかりはやめて欲しい。でも、一連の仕草には一切のイヤらしさは無い。私のお尻には若干硬さと質量を増した鋼の熱が当たってはいるが本人曰く不可抗力な生理的反応とのことで、実際鋼の手は私の胴体を撫で回すばかりで、胸や下腹部のさらに下には触れて来ず、本当に性欲を感じさせない。無理矢理例えるとすると、赤ちゃんが初めてできたお気に入りのぬいぐるみで一心不乱に遊び続けているような……そんな感じだろうか。
 私の方はというと、好きな人の体温を背中いっぱいで感じながら撫で回され続けもすればどうしても体温は上がってしまって、今度はこの体内で燻る疼きを我慢しなくてはいけなくなる。……ただ、これは鋼のせいというか、私の保身が大きい。
 一度だけ昂りを伝えたことは、ある。結果から言うと、地獄を見た。いつも鋼は壊れ物でも扱うかのように優しくしてくれる。確かにあの日も優しいは優しかった。しかしどうも甘える日の鋼は変なスイッチが入りやすいのか既に入っているのか……私が顔中、身体中、頭の中まで何もかも全てぐちゃぐちゃのどろどろになってどれだけ泣こうともどう懇願しようとも、もう最後にはお腹を撫でられるだけで身を跳ねさせられて、それなのに下半身の感覚は何もかも分からなくなるほど執拗にじっくり、ゆっくり、しっかり”愛されて“しまい…………あの日のことは思い出すだけで冷や汗が出そう。トラウマが強すぎて、どちらを取るかといえば、双方平穏でいられる現状維持だ。
 ……ともかく、私のお腹が鋼に好き放題にされるのはよくあることといえばよくあることだったので、私は諦めて仰向けに寝返りだけをして瞼を下ろした。

 そうして少し経った頃、全身が脱力し、鋼の温かい手を湯たんぽに、吐息を子守唄にまどろんでいたその時。隣でごそごそと動く音、布団がずれる感覚に私の無に落ちかけていた意識がふわりと浮かぶ。なんとなく、隣に居るはずの鋼の気配が消えたような気がした。お手洗いだろうか。少し浮いた掛け布団の感覚に、ぼうっとそう思った。それなら、今のうちにはだけた裾を元に戻そうか……。

「ひゃっ!?」

 ぬるり。お腹を這う湿った感覚に、一気に意識が覚醒する。なめくじなんかが居たらもう眠れない、がばりと布団を覗いてみれば、私のお腹の辺りにぼんやりと丸まった影が見えた。

「すごい、可愛い声が出たな……」

 その塊から驚いたような、バツの悪そうな動揺した鋼の声がした。一緒に、吐息がかかってお腹がくすぐったい。どうやら、鋼の顔がそこら辺にあるらしい。

「なに、してるの……?」
「……ええと」
「……気持ちよく寝ようっていう時に、突然お腹を舐められれば、悲鳴くらい出るよ」
「ごめん」

 私の予想通りだったのか、いつも通り一言謝罪をして、でもその塊はまた私のお腹に触れてきた。手じゃない。柔らかくすり寄せられるのは鋼の頬だろうか。じゃあ、一緒にこしょこしょと触れる刷毛のようなものは髪の毛か。

「ねえ、鋼、くすぐったいよ」
「ごめん」
「ちょっと、なに……」

 身をよじり逃げようとすると、両脇腹を圧迫が襲った。布団の中の鋼の影が、腕を伸ばして私の身体をがっしりと抱き締めてしまった。鍛えている鋼にそう捕らえられてしまっては、私の眠気で脱力した抵抗など簡単に無為にされる。先程から繰り返しているごめんとはなんだったのか。そのまま私の両脚にまたがって、いや、私のおへそから下の全部に覆い被さって、腕どころか全身で拘束するかのように蠢いている。この狭く暗い布団の中で甘え始める鋼に、内心、私は動揺していた。……これは、初めてのパターンだ。

「こ、鋼……?」
「ほんとうは、こうしてふとんにもぐってねるの、すきなんだ」

 じわじわ湧き出る薄気味悪さを押しとどめながら恐る恐る呼びかけると、もうほとんどとろけきった声がぼそぼそと聞こえてきた。

「いきができないからやめなさい、ってちいさいときおやにいわれたし、こどもっぽいから、ふだんはしないけど」

 むにゃむにゃとあくび混じりに囁かれて、枕がわりにされているお腹がくすぐったい。

のおなか、きもちいいよ。あたたかくて、やわらかくて……おちつく」

 寝言のようなそれが、すうすうと落ち着いた呼吸音に段々と溶けていく。

「ひとつに、なれたらいいのに」

 その一言を最後に、穏やかなそれらはすぐに寝息に変わって、鋼みたいに寝付きが特別良いわけでもない私はひとり取り残されてしまった。
 ……多分、これは、触れちゃいけない、鋼の柔らかくて傷つきやすい部分のひとつだ。眠いのにすっかり冴えてしまった脳みそでなんとなく、そう思う。少なくとも、このひとつになりたいというのは、セックスのことを指しているわけではないんだろう。蝉みたいに私に縋りついたまま器用に眠る鋼に対して、私は身じろぎ一つ許されず、頭は鋼について答えの出ないぐるぐるとした暗闇に投げ出されて、一睡もできそうにない。
 何より、枕としてこちらの困惑に対して腹立たしいほど規則正しい寝息を受け、どんな幸せな夢を見ているのか時折頬を擦り寄せられる胎が……とにかく重たかった。


(220529)


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