月夜

冷たい夜風がわずかに開いた窓を通り過ぎる音で、ふと目を覚ました。
 夜更けらしい静寂。目を閉じてみたけれど、窓からの月明かりが眩しい。
 ……落ち着かない。
 私はかけ布をそっと払って、身を起こした。最近、ふとした拍子に胸の奥がざわついてしまう。
 盧笙先生。
 ぽつり、と呟くと心がじんわりと温かくなる。穏やかで優しい声。子供達に向ける慈愛に満ちた微笑み。聖書を朗読し聞く人の背を押すような明朗で力強い声。相談事にはちょっと熱くなりすぎるところもあるけれど……尊敬してやまない、この教会自慢の神父様だ。
 そして、私は盧笙先生のことを思い、胸を焦がしている。許されないことだ。神に仕える神父様へ、こんな気持ちを抱き心を乱すなど。お相手が盧笙先生でなかったとしても、私自身神に仕える身なのだから、これは二重に許されざる私の罪だ。
 でも以前は、こんなにざらついた気分にはならなかった。あの懺悔の夜。今まで秘めていた罪を初めて口に出したせいだろうか。折角、高名な神父様にお言葉までいただいたというのに……あの時私の心にひとつの小さな石が投げ込まれたかのように、時折ざわざわと細波を立てるのだ。きっと、私が未熟だからいけないんだ。
 少しでもこの罪深い心を清めたくて、私はそっと礼拝堂へ向かうことにした。
 廊下を静かに歩くうち、ふと違和感を覚えた。私以外の、誰かの足音がする。それも、教会の裏口へ向かっていく音だった。そっと様子を伺うと、見慣れぬ黒衣と赤い手袋の影が、窓から差す月明かりに浮かび上がる。
 入間神父様……?
 先月ぶりに視察にいらして、そのまま今晩は泊まられるというお話は伺っていた。けれどこんな夜中に、お一人でいったいどちらへ出歩くのだろう。この教会の周りには、盧笙先生の世話する小さな畑と森しかない。数軒の民家もあるけれど、少し歩く距離だ。私は戸惑いながらも、どうしても引っかかるものを感じて気付けばそっと彼の後を追っていた。
 裏口を抜ければ、ひんやりとした夜の空気が肌を撫でる。
 空を見上げれば、雲ひとつない。冴えざえとした月は高く昇り、その光の下ではどんな罪も隠せないかのように輝いていた。
 昼間のような明かりの下よく見える長身の黒衣を、足音を忍ばせながら追う。教会の裏手を進む神父様は、やがて森へと続く細い道へと入っていった。
 月明かりを遮る闇を前に、不安が胸を締め付ける。
 けれどそれ以上に、確かめなくては、という衝動に駆られてしまっていた。
 やがて、低く響く声が暗がりから聞こえてきた。
 
「いいんじゃねえか。これで俺らもしばらくは安泰ってわけだ」

 月明かりの木漏れ日が、彼らの姿を淡く照らす。そこにいたのは入間神父様と、見知らぬ白髪の男。その目付きは鋭く、一目で只者ではないと分かる雰囲気を纏っていた。
 
「ただし、条件は守ってもらいます。……あんまり派手にやりすぎるなよ」

 神父様の声が冷ややかに響く。礼拝堂で信徒に語りかける時のものとは、まるで別人のようだった。
 鼓動が早まる。これは、ただの会話ではないのでは? 何か、もっと……。
 
「ハッ、てめーも随分と面倒な立場だな。ま、せいぜい神父様のお仕事頑張んな」

 男が肩をすくめて笑い、お互い袋のようなものを交わし合い、懐に収めた。
 私は息を呑んだ。目の前の光景が、どこか現実ではないような気がした。例えば、舞台の上で誰かが演じている劇を見ているかのような遠い感覚。けれどこのやりとりは、確かに、この闇の中で交わされている。これは、ただの親しいもの同士の会話で片付けられるものなのだろうか? 入間神父様は、大きな教会で神に仕え、街での評判も高い聖職者だ。それが……どうして、こんな時間に、こんな場所で、こそこそとお話を……。
 私は逃げるように立ち去った。ただ早く、今すぐこの場を離れなければと思った。足がもつれそうになる。ただの早歩きが、ひどく息を乱した。教会の裏手の角へたどり着いたところで、壁に寄りかかるようにして息を吐く。心臓の鼓動が、耳の奥で痛いほど響いている。でも、ここなら、入間神父様が戻られる様子が見えるはずだ。それを待って、呼吸と気持ちを落ち着けてから部屋に戻ろう。そう思い、ひとつ大きく息を吸った。


「良い月ですね、シスター」


 背後から静かに囁かれた声に、全身が凍りついた。
 恐る恐る、振り返る。森の闇を纏ったような司祭服。入間神父様が、静かに佇んでいる。眼鏡越しの鋭い瞳が、月明かりに妖しく光っていた。
 
「こんな夜更けに、またお祈りですか?」

 顎に赤い手をやり、神父様が微笑む。
 
「それともお散歩でしょうか?」

 軽やかに紡がれる言葉とは裏腹に、底知れぬ意図がひしひしと伝わる。まるで私の行動の全てを見透かしているかのような、余裕に満ちた響きだった。
 
「こんな月の晩は、辺りがとてもよく見えますからねえ」

 喉が強張る。何か答えなければ、と思うのに、言葉が出てこない。震える手で、胸元の十字架を握りしめる。いつもならその感触が私を落ち着かせてくれる。でも、今はただ、その冷たさが心臓をより一層締め付けるだけだった。
 
「おやおや。どうしました、そんなに震えて……まるで、罪を抱えた迷い人のようですよ」

 月光が降り注ぐ中で、入間神父様が笑みを深めた。穏やかに見えるその表情の奥は、まるで違う顔があるように見えてならない。だって、本当の迷い人は、どちらなのか。先ほどの怪しげな取引……罪を犯しているのは、きっとこの人の方なのに。
 
「私がですか? まさか」

 私が引き攣る喉でなんとか応えると、入間神父はくすくすと喉を鳴らして笑った。静寂に響くその声が、ひやりと頬を撫でる風に乗って、耳の奥に絡みつく。
 まるでこの会話を心の底から楽しんでいるかのように余裕に満ちた笑みのまま、彼は涼しげに言葉を続けた。
 
「私は、何も悪いことなどしていませんよ」

 それから、そっと声を潜めた。まるでいたずらの相談をする子供のように、楽しみを含んだ低い囁き声で話を続けた。
 
「ですが、今夜のことを誰かに知られると困る……そうは思いませんか?」
「困る、のですか……?」

 問い返した私の声は、驚くほど弱々しかった。少なくとも、今この場で正常な立場であるはずなのに、ごく小さく、そして震えてしまっていた。
 
「ええ。多くの罪無き人々が。そして、きっと貴方も」

 多くの罪無き人々……? 私も……?
 予想外の答えに、思考が鈍る。今、困るのは入間神父の方のはずなのに。でも、彼の言葉を脳裏で繰り返すたび、何か重たいものが胃に落ちるようだった。何を意味しているのかはわからないが、きっと私にとって見過ごせないものであることだけは、確かだった。
 
「ご存知ですか? この街の貧しい教会や孤児院などの施設が、私の資金繰りによって成り立っていることを」

 彼の口にしたことは、この街で聖職に関わる者ならば誰もが知っていること。入間神父様が街中だけでなく、人手や管理の行き届かぬ郊外にも足を運び説教や告解を行うこと。そして、清貧な教会や施設への援助にも精力的に取り組んでおられること。これらこそが、彼が素晴らしい神父様と人々から讃えられる理由だからだ。
 今、彼がこの話を持ち出すことが、なにかとても不吉な響きを帯びて感じられた。
 
「この教会も苦労されていると伺っていますよ。……躑躅森さんから」

 盧笙先生。
 その名が入間神父の口で紡がれた瞬間……心臓が鷲掴みにされたように締め付けられる。私の中で揺れていた小さな警戒心が、一気に大きく膨れ上がった。
 そう、この教会も決して裕福ではない。入間神父の支援によって成り立っている教会のひとつだ。そして、あの日“私の懺悔”を聞いた神父様が、わざわざ盧笙先生の名前を出している。
 その意図が、なにか。
 
「ねえ、シスター。もし貴方が告発をして私がいなくなったら、この街はどうなると思います?」

 静かな囁き。夜に溶け込むように穏やかで、優しくさえある。未だ微笑みを崩さない彼の表情もあまりに自然で、私と交わしているのがただの日常会話なのではないかと錯覚してしまいそうになる。
 けれど、彼の放つ言葉の意味は、恐ろしいほどに重かった。
 
「賢い貴方ならば、分かりますね?」

 その言葉は、夜の空気に深として響いた。風も、木々の葉がそよぐ音も、一瞬だけ、全てが消え去った。この瞬間、世界が入間神父の言葉に支配されたような錯覚に襲われる。月だけが、あまりにも明るかった。
 ようやく、先ほどの“困る”の意味を、私は理解してしまった。
 私は小さく、でも、確かに頷いた。……頷いて、しまった。喉の奥が詰まって、声を出すことすら恐ろしかった。体の奥底から、冷たいものがじりじりと這い上がってくる。
 
「結構。物分かりが良い人は、嫌いじゃありませんよ」

 入間神父の声が、褒めるように響く。でも、その優雅な口調にはまだどこか冷たいものが滲んでいた。
 
「けれど、困りましたね」

 軽いため息が落ちる。それも、話し方も、わざとらしくすくめられた方も……仕草のひとつひとつがあまりにも作為的で、舞台の上で完璧に演じられた芝居を見せられているようだった。
 入間神父が、赤い指を私へ向ける。まるで、舞台上に招待するかのように。
 
「貴方のそのお口が固く閉ざされると、どうして信じられるでしょう?」

 彼の言葉が、夜風に溶ける。それが、私の冷や汗を冷たく撫でる。胸の奥がざわめく。夢中で首を振って、必死に言葉を探した。

「っ誰にも! 誰にも、言いません。誓います……!」

 自分でも、驚くほど震えた声だった。それでも口に出さなければならなかった。この教会を守るためには。彼への反意を見せることだけは避けなくてはいけないから。
 
「本当でしょうか」

 神父様は、変わらずに慈悲深い聖職者のような微笑みを浮かべている。そのままの調子で、私へと静かに問いかけた。
 
「例えば……躑躅森さんに尋ねられても?」

 思考が止まる。
 盧笙先生? 先生に、私は嘘をつける?
 ほんの一拍。
 だけど、彼が私の誓いを疑うには、その迷いだけで十分だった。
 
「やはり貴方の言葉だけでは、少々心許ないですねえ……なにか、証が必要かもしれませんね」

 入間神父は、ゆっくりとした動作で眼鏡の位置を直す。私の心の揺れを、掌の上で楽しんでいるような余裕が伝わってくるようだった。
 
「そういえば貴方、先日あんな純粋な懺悔をしていたくらいですから──」

 まるで今思い出したかのように、入間神父が言葉を紡ぐ。その声音が妙に柔らかいことに、背筋がぞわりと冷えていく。

「──まだ、誰のものにもなっていないのでしょう?」

 何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
 何かが軋むような不快感に、頭の奥が痛んだ。胸の奥で、強烈な嫌悪と恐怖が膨らんでいく。時間がゆっくりと引き延ばされ、身体の芯から凍りつくような冷たさが広がった。
 
「神父様、いったい、なに、を……?」

 私の震える唇に、入間神父は笑みを深めた。でも、それはとてもじゃないけれど、もはや聖職者の笑みなどではなかった。
 一歩、足音が近づく。月明かりに落ちる影が、私との距離を詰める。
 また一歩。靴音が乾いた地面を踏み締める。
 
「お願いします、どうか……や、やめて、ください……!」

 全身が強張る。足がすくむ。後退りをしようにも、私の背はすでに教会の壁に張り付いていた。空気が重く、圧し掛かってくる。
「そんなに恐ろしいですか?」
 目の前まで迫った入間神父が、私の目を覗き込む。そしてあくまでも穏やかに、柔らかく囁いた。
 
「それならば……なおさら、証には相応しいようですね」

 心臓が跳ねる。言葉の一つ一つが、恐れを纏った刃のように、冷たく私の皮膚をなぞるようだった。
 
「だってそうでしょう? これで、もし今夜これから起こることが貴方の敬愛してやまない清廉潔白な神父へと知れたら、彼はどんな顔をしますかねえ」

 盧笙先生が? あの人が、何を? これから、何が?
 
「貴方の純潔を奪ったのが、私だと」

 思考が、崩れる。
 頭に、なにも言葉が浮かばない。夜の空気が喉を掴むようで、息ができない。手足が鉛のように重くなっていく。
 
「心配はいりません。だって、貴方が賢ければ、“今夜は何も起こらなかった”。それで済むことです……違いますか?」

 真っ白の頭が、言葉の意味を少しずつ理解していくも、それを認められない。けれど、入間神父は私の答えなど初めから聞くつもりはない、いや分かりきっているかのように、悠然と言葉を続けた。
 
「さて、それでは……貴方が“神”に誓って口を閉ざせるよう、私が導いて差し上げましょう」

 その言葉が落ちた瞬間、私の世界は静かに崩れ始めた。逃げる道も、抗う術も、私には残されていなかった。