赦し
冷たい石壁に押し付けられた背中が痺れる。荒い息が喉の奥で絡まる。悲鳴すら声にならない。震える身体は言うことを聞かない。ただ絶望の中に沈んでいくようだった。
晒された足を撫でる夜風はひどく冷たくて、それが今の私にとって唯一現実を感じさせるものだった。石壁を掻く指先はすでに感覚が無い。もう、どこからどこまでが自分の身体なのかわからない。心臓の鼓動すら遠くて、まるで何もかもが他人事のようだった。
「……いた、い……っ」
掠れた声が、夜の静寂に儚く溶ける。やめて、とも何度も拒絶と懇願も口にした。でも、目の前の黒い影にも、誰にも届かない。意味のない呻き声でしかなかった。じわじわと沁み出て止まらない涙も、ただ頬を伝って、冷えた地面に落ちて消える。
すべて、悪い夢だったら良いのに。
いつも通り窓から差す朝日で目が覚めて、箒を持って外に出れば起き始めた子供たちが賑やかに支度を始める。それで、畑に水をやりながら盧笙先生が「おはよう! 早いなあ」と笑ってくれる。
「うぅ……い、や……」
そんな願いさえ、縋ろうとする端から、塗りつぶされていく。
絞り出すように、痛みに震える息を吐く。けれど、司祭服を着た悪魔は耳を傾けることはなかった。動きに迷いはなく、淡々と行為を続ける様は、普段執り行うミサや儀式の一環のようだった。
その冷静さが、余計に恐怖を掻き立てた。これは現実なんだ。夢でも、幻でもなくて、もう二度と戻すことはできない、現実。
「すぐに慣れますよ」
慰めるような囁き。でも、そこに慈悲など微塵もない。
慣れる? こんなことに?
そんなわけがない。こんな悍ましく穢らわしく苦しく辛く痛いだけの行為になんて、慣れるわけがない。
ずる、ずる、と下腹部を蛇が行き来するようだった。その度に引き裂かれるような痛みに震えが止まらない。恐ろしい圧迫感に涙が押し出されるように溢れ続ける。身体の揺れに合わせて夜風が肌を刺す度に、取り返しのつかないことが起きていると執拗に理解させられる。
どこで間違えたのだろう。目を覚まして、お祈りしようと思ったことが間違いだった? あの夜、この男に囁かれるままに懺悔室へ入ったのがいけなかった? それとも……もっと前、私が、盧笙先生に浅はかな想いを抱いたから?
どうして。
どうしてこんなことに。
答えの出ない問いが、頭の中で堂々巡りする。
たすけて。
たった四文字の願いすら、喉の奥で潰れて音にならない。神に、誰かに、助けを求めることさえ、今の愚かな自分には許されないような気がした。
「……ろ……せい……」
あの人の顔を思い浮かべた途端、胸が砕けそうになる。身体とは違うところが、ひどく痛い。もし、こんな姿を知られたら。きっと、優しいあの人に悲しい顔をさせてしまう。いや、それだけならいい。もし、軽蔑の目で見られたら? ここにいることすら赦されなかったら?
……耐えられない。
この後に及んで恐れているのが自分の保身なことも、私を絶望の淵へ一歩近づけた。この愚かさのせいで、私は容易く絡め取られているというのに。
「心配いりませんよ。ただ、私の言葉に従うだけです」
けれど、道は示されていた。ただ、私が口を閉ざせば、それでいいのだと。教会は、盧笙先生は困らないし、私の穢れも……。
本当に?
本当に、それで今夜のことが無かったことになる? なにもかも?
違う。消えるはずがない。心の奥底で叫ぶ私がいる。それでも、私が表に出せるのは小さな嗚咽と涙だけだった。
身体を揺さぶられる度、頭がひとつひとつ私の絶望を理解していく。心が追いつかない。何もかも、信じられなかった。
「まったく、こんなに震えて……可哀想ですね」
白々しい哀れみの言葉と共に、赤い指が頬を撫で、目尻に溜まる涙を拭った。手袋さえ外されていない。ただ私を犯すそこの部分から、熱が身体の中を蝕んでいく。
いつ、終わるんだろうか。そもそも、何がどうなれば終わるのかも、わからなかった。心も、体も、限界だった。いっそ壊れてしまいたかったけれど、それも叶わなかった。瞼を閉じてみても、何度も刻まれる痛みに、無理矢理意識を引き戻される。
「そろそろ、終わらせてあげましょうか」
嘲笑と共に落ちてきた言葉に、私は力無く瞬きをする。
終わる? この悪夢が?
もう、全てが遠い世界の、私には関係のない出来事のような気分だった。
でも、次の瞬間、黒衣に包まれると同時、一際奥に突き刺すように重たい衝撃があった。
「っう、あ゛……ッ!?」
「どうぞ、受け入れてください。これは“赦し”なのですから」
耳元に唇が寄せられて、まるで聖言を読み上げるかのような低く厳かな囁き声が頭に直接響いた。
「っ……? ぁ、え……?」
男が息を乱した瞬間、何かが確かに刻まれた感覚があった。
身体の奥深くに満ちていく熱。
何が起こったのか、理解する前に、全身が大きくぶるりと震えた。それが恐怖から来たものなのか、痛みからか、もっと別の何かなのかはわからなかった。
「……終わりましたよ」
あっさりとした声が、夜の静寂を払うように響いた。
入間神父は何事もなかったかのように身を引き、身なりを整えている。途端に夜風が木々の葉を揺らし、私の肌に冷たく吹き付け容赦なくまとわりついた。
「え、ぁ……なか……?」
解放されたはずの下腹部に残る違和感。
ぼんやりとした意識と思考が、残酷に冷やされていく。その感触の意味を理解した途端、体から最後の力が抜け落ちる。
視界が揺らぐ。焦点が合わない。呼吸が浅い。現実と身体の境界が曖昧になるような錯覚。何もかもが、再び遠ざかってゆく。
手を動かそうとしたけれど、自分の身体ではないみたいに力が入らない。足元がふわふわと定まらず、冷たい石壁に背を預けたまま崩れ落ちた。
「おやおや。大丈夫ですか?」
心配するような笑い声。しかし、それは言葉だけでなんの慈悲も意味もない。
痛みも、寒さも、屈辱も、何もかもが別の世界で起きている。
違う。別の世界に来てしまったのは、私だ。
もう、何もかもが変わってしまった。
「顔色が悪い。今夜はゆっくり休まれてください。朝までそのままだと……躑躅森さんに心配されてしまいますよ?」
盧笙先生。知られたくない。知られてはいけない。これだけは。あの人にだけは。絶対に。
「恐れることは何もありません。“神”はすべての罪を許して下さいますよ」
入間神父の指が、私の顎をそっと持ち上げた。鈍く光る緑の目線が、私を絡めとる。
逃げられない。神父の口が動く度、闇が、無数の手のように絡みついてくる。
「貴方が口を閉ざせば、すべてはこの夜に埋もれる。ただそれだけの話です」
頷くことしかできなかった。沈黙こそが、自分に残された唯一の道なのだと、本能が痛いほど訴えていた。
入間神父の目が満足げに細められ、手を離された。
「それでは、また……」
黒衣が、夜に溶けていく。
その後ろ姿が完全に視界から消えるまで、少しも動くことはできなかった。
「私は、何度でも、繰り返し貴方を赦しましょう」
冷たい石の上、ただ茫然と空を仰いだ。
一筋の雲もない。冴えざえとした月が、輝いているだけだった。