失楽園
窓から差す日が眩しかった。
目を開けると、天井が霞んで見えた。もう日は随分と高いみたいで、窓の外には青い空が広がっている。
「……っ……」
痛い。身体を動かそうとして、鈍い痛みに固まった。関節の一つ一つが軋むようだった。瞬き一つすら、億劫に感じた。
昨夜のことが、一気に脳裡に溢れた。
息が詰まる。心臓が嫌な音を立てて跳ねる。骨の芯まで冷え切っていく感覚。開いた目を強く閉じた。拒む。思い出したくない。けれど、瞼の裏の闇に、消したくてもどうしようもない痕跡が何度も、何度も浮かんだ。
冷たい石壁。身体を開く赤い手。耳元で囁く声。赦しの言葉。月の光。沈黙を促す緑の瞳。
指先が、身体が震えた。
夢じゃなかった。悪い夢じゃなかったんだ。目が覚めても、痛みも重たさもなにも消えていなかった。
あの後。何をどうやって部屋に戻ったのか、記憶にない。
ただ、寝る前に身体を拭った。適当な布を手に持って、水差しの水を含ませて。消さなければと思った。ひどく耐え難かった。肌に残るあの手袋の感触。脚の付け根の違和感。
布に滲んだものを見た瞬間、喉の奥から熱いものが込み上げた。
痛みを示す赤と、どろりとした白。変わってしまった、何より確かな証拠だった。
誰も起こさないように、静かに泣きながら拭った。必死に擦っても、じんじんと余韻の痛みが長引くだけで、何も変わらないことはわかっていた。布に滲まなくなっても、私の身体に起きたことが消えることはないことはわかっていた。それでも、止められなかった。
……立たなければ。
目が覚めるには、いつもよりずっと遅い時間だ。もうお昼を過ぎているかもしれない。ぎこちなく掛け布を払う。慎重に床に足をつける。
ベッドから降りた瞬間、膝が抜けそうになった。咄嗟に近くの椅子に手をついた。
まるで、自分が自分でなくなったような感覚。昨日のままだった。宙に浮くような、地に足がつかない違和感が身体中を包んでいた。深呼吸をする。けれど、空気が薄くて、息苦しい。胸の奥に、静かな痛みが広がっていく。
……ここままではいけない。
頭を強く振って、それからゆっくりと部屋を出た。
***
廊下を歩くたび、床板が僅かに軋む。聞き慣れた足音。
食堂の前で立ち止まる。中から音がする。きっと盧笙先生が昼食を片付けている音だ。
盧笙先生。
……謝らなければ。寝坊したことを。今は、ただそれだけを。
でも、手が動かない。今、会ってもいいのだろうか。いや、会っても、私が大丈夫なんだろうか。
この扉を開けて、先生の笑顔を見たら……私はどうなるのだろう。何を思えばいいんだろう。先生の声を聞いて、どんな表情を作ればいいんだろう。
……そもそも、先生の前に立つ資格があるのだろうか?
手が、取っ手に触れたまま動かない。指先が、ひどく冷たい。
「……っ……」
奥歯を噛み締める。
立つ資格なんてない。そんなこと、分かっていた。もう、穢れているのだから。それでも、私は何もなかった顔をするしかない。昨晩のことが公になってしまえば……盧笙先生が、傷付いてしまうから。私が、盧笙先生のために嘘を吐こうとした。その上に穢されてたこともバレたくない。
何もわからない。ただ、私にできることが黙っていることだけということしか。
……どうしようもない。
目を閉じて、ひとつ、ふたつ、息を整える。意を決して、扉を開いた。
暖かい。穏やかな昼の光が差し込んでいる。テーブルには、お盆と一人分の食事が置かれていた。
「? ごめんな、これ洗い終わったらご飯持ってこう思ててん」
そして……先生が、そこにいた。腕捲りして、濡れたお皿を手に笑っている。
お盆のご飯は、私の分だったんだ。寝坊をしたのにという申し訳なさと、先生の優しさに口を開こうとした。
「入間さんがな、朝きみがちょっと具合悪そうやったから休ませた方がええって……もう起きて大丈夫なんか?」
心臓が凍りついた。
ひゅう、と言葉にできなかった息が喉で鳴る。
入間神父。
今、何よりも聞きたくない名前。思い出したくない名前。考えたくない名前。あの人が、すでに、なにか、先生と話をした。
震える唇を、結んで、もう一度開く。
「……はい、大丈夫です」
なんとか絞り出した声は、情けないほど弱々しかった。
先生は心配そうに眉を下げて、それから安心させるように快活に笑った。
「ほら、座り。スープ、さっき温めたとこやから、ちょっとでも口にしてな」
勧められるまま、足がもつれないように気をつけて席に着く。スープの湯気が頬に温かく触れる。パンの香ばしい匂いが鼻をかすめた。でも、すべてが遠く霞んで感じられた。
窓の外から、子供達の声がする。遊んでいたり、先生から出された宿題を考えていたり。かすかな草の匂いを乗せて、心地よい風が流れてゆく。
昨日のことが、まるで嘘のようだった。
この、膝の裏に残る痛みが、腰掛けた時に感じる違和感が無ければ、きっと嘘だと思い込めた。
……やめよう。食器を手に取る。とにかく、無心で良いから、食事を摂ろう。いつものように。盧笙先生に、怪しまれないように。
「そういや朝イチで街戻らはったんやけどな、入間さん、“敬虔なシスターさんによろしく”って言うてたわ」
カチン。スプーンが皿に当たって、音が響いた。指先に力が入る。皿洗いに戻った盧笙先生は、気付かないでくれた。
「ほんでな、“もしよろしければ、街の教会でも学んでみませんか”って。……いやぁ、すごいことやで」
いつもなら嬉しくて胸がいっぱいになるはずの、盧笙先生からの賞賛。
また、意識が遠のくような感覚に襲われた。
「ま、無理してとは言わへん。入間さんも“選ぶのはシスターですから”って笑てたしな」
先生の声。優しくて、元気で、好きだった。でも、それが、今は何よりも冷たく胸に刺さる。
喉が渇いていく。スープの味は、もうわからない。昨日の声が脳裏に響く。
──”何度でも、繰り返し貴方を赦しましょう”。
選択肢なんか、無い。
「……なあ、ほんまに大丈夫か? 食べられるぶんだけ食べて、今日は無理せんと休んどき。きみはいつも、よう頑張ってくれてるしな!」
私は、よほど酷い顔をしているんだろう。お皿を洗い終えた先生が、子供達にするのと同じように、頭を撫でてくれた。私の目線まで屈んで、微笑み掛けてくれる。
ただ、胸が痛かった。
良かった、と思ってしまった。入間神父が、体調について言葉添えしてくださっていて。そうじゃなければ、きっと、誤魔化せなかった。
私は、目を逸らすように小さく頷いた。
「はい」
それだけが、今の私の口に赦された唯一の言葉だった。これが、入間神父の提案への承諾なのか、盧笙先生の心配への返事なのか、自分でもわからなかった。